第74回 2017年9月29日 

 

渤海沿岸と日本列島を結ぶ海上勢力--銅剣伝達主体と王権形成(平井進)

 

(1)奈良時代の直前の時期の木簡が奈良県地方を「あが妻倭国」と記していたと解されることから、その時期に倭国が西方から移動していたと見られること、倭国が海岸地方にあり、島であったと歌う『万葉集』等のいくつかの資料があることから、倭王権が奈良時代の直前に移動していたことがうかがえる。また、『日本書紀』の大八洲の記事から、それが日本列島に存在していなかったことがうかがえる。

(2)『三国史記』等において、倭と新羅の境界の近くに高句麗があったとする記事があること、『日本書紀』がいう倭が任那であったことがうかがえ、それが百済と接していた記事があること等から、倭がこれら三国と接していたと考えられるが、三国も移動していたと見られる。『山海経』の倭が燕に属するとある記事等から、倭があった最も有力な候補は渤海沿岸と考えられる。長江北支流域での倭人塼から、倭人が渤海沿岸から長江流域にかけた範囲を交易していたと見られる。

(3)『日本書紀』のニニギ命の天降時の三種の神宝は、渤海沿岸内陸の遼寧省西部方面から始まっている。『日本書紀』の佐伯於閭礙(おろげ)の名は百済の王をいう於羅瑕(おらげ)と対応すること、その氏族に靺鞨という名の者もおり、靺鞨が扶餘-高句麗系であること、佐伯氏が倭王権と同じく高ミムスヒ神を祖神とすること、『日本書紀』に倭の天皇が高句麗王を神の子と呼んで祖神を同じくしていたと見られること等から、倭王権が扶餘系であったことがうかがえる。住吉神と八幡神の伝承も中国起源としている。ここでは、上記倭の島が渤海の島であったという仮説を提示する。

(4)上記三種の組合せは、朝鮮半島では西岸の中南部に集中し、遼寧地方から陸上を伝達していない。三種の組合せが日本列島で出土する福岡市の吉武高木の銅剣の燕国王銘のあるものと同様の形式も、遼東半島から日本列島に伝達している。これらは、王権の権威を象徴するものが倭の海上勢力によって伝えられていたことをうかがわせ、王権の権威を伝えていた当事者が王権自体であった可能性が高い。